明日食べるものがない。
子供たちがお腹を空かしている。
生か死かを分ける一大事。
そんな時は売れるものを売り、生きる・明日へつなぐ。
至極もっともであり、そういった理由であれば亡くなった親も、先祖も本望だろう。
が、しかし。
わたくし、平成9年に古物商の許可を公安委員会に頂き、製作のかたわら買い取った貴金属の額は数千万ちょっと。
その買い取った貴金属や宝飾品を溶かし、24金にする。
また、” 市 “ というツワモノが仕切る世界に転売する。
それが買い取り、リサイクル・循環システムである。
この買い取りという商売は、手間がかからず利益が確保できる。
なにも生産せず、右から左に売買で利益が確定。
これで食えたら、”ものつくり” が、いかに効率が悪いかがわかる。
クールに商売と考えましたら ね。
人間関係・親子関係に合理性を求める ?
いわゆる人生に合理性をはてはめる。
個人の勝手だが、千思万考・多事騒音でもの申すと、この「血・一族・家」という問題・課題に一番遠いのが、合理性である。
「死んでしまって残念だが、お金になるのなら話は別」「あっても私自身につけないのだから、お金に換えてなにが悪い」。
真剣にリアクションをするのが辛く・苦しいが、そういうやり取りも何度も、何十回も経験した。
しかし、商売と考えたらこの買い取りはウェルカム ♪。
指輪一本製作してお金を頂くのに比べたら、本当に手間がかからず利益が確保できる。
わたくしの仲間でも「モノつくりなんてやってらんねー」と言って、買い取りをメインにした商売に切りかえた者もいる。
金の異常な高値も終わり、現在では、貴金属・ジュエリーの買い取りが減り、ブランドバックや時計の買い取りで食いつないでいるらしい。
良い・悪いではなく、「君とはもうのまん」と心の中でツイートした。
この親の遺品・形見を換金するという現象。
この10年位多い。
もちろん少数であるが、「リフォームにお金をかけるなら、売っちゃう」という言葉。
何十回聞いた事か。
自分の甲斐性で購入したモノであれば、もの申すは野暮。
しかし、遺品・形見となれば話は別。
「どういう事情かしらないけど、うちでは買い取れない」と断った事もある。
商売人としては未熟なアクションではあるが、「嫌なものはイヤ」。
が、しかし。
昨今では、いや、昔からあると思うが、自分の欲求のため子供を不幸にする親もいる。
すべての子供たちが親を親と思っているとは限らない。
また、パパが感情の思うがまま、実の娘に暴力を振るう。
そんな悍ましく、想像のできない現象を受けた子供たちもいる。
その現象を味わった者からしたら、遺品・形見など “ 何 ? “ という思考も心を寄せられる。
当然なのかもしれない、と、そう想う事もできる。
また、親子関係・人間関係は「時代の作った幻」という理念があるのなら、私如きがもの申すのは失礼なのかもしれない。
だが、人生も商売も未来につないでこそ、継続・継承してこそ、文化・歴史という一面もある。
一族というものも、またしかり。
現在は過去が作り、未来は現在が作る事だけは事実。
受け入れ・許し・溶かし、感謝して、そして未来に繋ぐ。
そのアイテムがジュエリーという宝飾品・貴金属であって欲しいと、たかが職人風情が想う昨今。
消化・消費、浪費の真逆を突き進む、青い昭和の職人ここにあり。